人間の特質(霊、魂、肉体の特質)
前回、軽い内容にするつもりが、気が付けば重い内容になってしまったことを反省。書いてる人の人生が重いため、必然的にそうなってしまうのでご容赦いただきたい。
今回は人間の特質である霊、魂、肉体の特質についてお話ししたいと思います。
まず、霊、魂、体の特質は下記になります。
霊=至福
魂=喜び
肉体=幸せ
まず、我々がとても身近に感じることができる肉体の特質から説明していきましょう。
肉体は可視領域だと固体、液体、ガス体によって、不可視の領域だとエーテル体(活力体)、アストラル体(感情体、感覚体)、下位メンタル体(精神体、具象的思考力を司る体)によって構成されています。我々人類の大半が使用している意識状態です。感覚や感情、欲望に基づき、具体的で合理的な思考力を用いて生きる意識状態です。以下肉体意識と称します。
この肉体意識は感覚や感情による快不快、幸不幸の二元論が行動基準になりますので、必然的に肉体意識が求める特質は幸せになります。
魂の特質は喜びです。
魂は上位メンタル体であるコーザル体(因果体、抽象的思考力を司る体)になります。魂には今まで転生してきたすべての前世の情報が記録されています。
抽象的思考力とは具象的思考力では決して理解できない高度な領域の思考力です。具象的思考力では1+1は必ず2になりますが、抽象的思考力ではその答えが必ず2になるとは限らないマインドのことです。
例えば例文として、
「1は3となり7となった。7はすみれ色に輝き、12となって世界をあまねく照らした。人々はそこに5本の燭台を灯し、1なるものへと祈りを捧げた」
こんな感じの文章は抽象的思考力がないと全く意味不明で理解できないものになります。
これらの抽象的な事柄は東大を首席で卒業した人でも抽象的思考力が目覚めてなければ全く理解できないでしょう。いくら現代社会の基準で頭がいいといっても抽象的思考力に比べれば所詮は低次元の能力なのです。みなさんも知性豊かな俗物にならないように気を付けましょう。
魂は肉体意識の個人主義的意識より集合的なグループ意識に近いので、魂が目覚めてくるとその人は徐々に利己主義から利他主義に移行していきます。個人よりも全体の利益が大切になり、公共の福利などが大切になってくるのです。何故なら魂には分離感覚はなく、究極的には他者も存在せず、すべての人間はすべてで一つであるということを知っているからです。そして魂の本質、霊の本質は愛なので、他者を助けたり奉仕活動をすると魂は喜びを感じます。
魂の目覚めの初期段階に目覚めるのは善意、魂の意思である善をなさんとする意思です。
現在の人類は大半がアストラル体に意識偏極しているのですが(ゆえに現在の人類は感情をコントロールすることができません)、この意識の偏極をアストラル体からメンタル体へと意識偏極することに成功すると、善を行う力は100倍増加します。みなさんも頑張って感情をコントロールして意識をメンタル体へと偏極してください。
最後に霊の特質は至福、サマーディ(三昧)になります。
霊はアートマ界(霊的意思の界層、涅槃)と呼ばれる界層に属しています。
これは個別化されていた魂さえも越えて、一切の分離の存在しない神々の世界の意識領域です。すべてが光と愛に満たされた至福の意識領域です。
この意識領域まで行ける人はお釈迦様やキリスト、孔子や老子などの突出した聖者のみとなります。
このサマーディ(至福、三昧)の境地にも段階があり、サヴィカルパ・サマーディ(有分別三昧)とニルヴァカルパ・サマーディ(無分別三昧)があります。勿論ニルヴァカルパ・サマーディのほうが高度であり、真の聖者しか到達しえない至高の領域です。
ちなみに私は、インドのブッダガヤというお釈迦様が悟りを開いた聖地の祝福された磁場の力を借りてですが、一度だけサヴィカルパ・サマーディに到達したことがあります。
お釈迦様のご加護のおかげですが、あの時は本当に何もないのにすべてが幸福で満たされていくとても不思議な感覚でした。その至福感はとても言葉では説明できないません。時間の感覚がなくなり、すべてが光と愛で満たされていく感じです。まあこればかりは実際に経験しないとわからないと思います。本当に素晴らしい体験でした。
サマーディ没入中は私の体から何か光のオーラが出ていたようで、なぜか私を拝んで私の体を触っていく人がたくさんいました。
あのままブッダガヤに住んで毎日瞑想していれば私は幸せに暮らせたんでしょうけど、私にはこの現世において、この日本でやるべきこと、なすべきことがあるので戻ってきました。犠牲を捧げて人々を助けるためです。
今回はこれでおしまいです。みなさんの参考になれば幸いです。